幼少の頃
大阪府生まれ。
両親は結婚後なかなか子宝に恵まれず、当時としては高齢出産での待望の一人娘として大切に育ててもらった。
私自身は、周りに比べて年配の両親に迷惑をかけない良い子でいなければ、という気持ちが強く、あまり子供らしい天真爛漫さは自分にはなかったと記憶している。
幼稚園の先生がピアノの先生
母は女の子が生まれたらピアノだけは習わせたいと考えていたそうで、4歳から幼稚園の担任の先生からピアノを習い始めた。
母は遊びを織り交ぜて、1回15分の練習を1日3回行うことを私に習慣づけてくれた。
丁寧な指導をしてくださった穏やかな先生と、根気よく練習をさせてくれた母のおかげでこの頃のピアノのレッスンは大変順調に進んだ。
夢破れたり...
私が小学校入学と同時に、幼稚園の先生は退職して故郷へ帰られ、母のつてで、新しい先生に指導を受けることになった。
新しい先生の教室は、生徒さんが多く、一人一人のレッスン時間はとても短く、年1回の発表会の曲を1年かけて仕上げる、というレッスンだった。
生徒が多いこともあり、発表会は盛大でとても華やかだった。
両親は発表会のたびに新しい洋服を作り、曲を聴いて喜んでくれ、いつも励ましてくれたが、幼いながらも発表会の曲を見てもらうだけで終わってしまうレッスンの内容には不満を感じており、母に毎回のように
「本格的に教えてもらえる別の教室へ通いたい」と訴えた。
母からは「この教室以外に知らないから変われれない」と言われ、そのまま同じ教室へ通う日々が続く。
小学3年生の時、先生から母に「素質があるので、専門的に教えてくださる先生を紹介しましょうか」とお話があった。
私は天にも昇るような嬉しい気持ちになったが、両親は音楽の道へ進ませるのは将来が不安だと考え、この話は流れてしまった。
この時のショックは子供ながらにとても大きかった。
父を説得
小学6年生の春になり、もっと本格的なレッスンを受けられる教室に変わりたい!
という気持ちは募るばかりで、最後は父に付き添ってもらい、何のあてもないまま6年間通った教室は退会することとなった。
やっと音楽大学へ通う近所の学生さんが私の新しい先生に決まったのは、小学6年生の秋ごろだった。
私の情熱に負け、両親も本格的に勉強できる素質があるならできる範囲で応援すると言ってくれるようになっていた。
覚悟できずに
私の小学校は、大阪府の音楽教育指定校になっていて、リコーダーコンクールへの出場や卒業歌の作曲なども行なっていた。
音楽専門教諭が5,6年生だけ参加できるコーラスクラブも運営してくださっており、伴奏者として活躍する機会を与えられ、友人にも恵まれ楽しい小学校時代だった。
新しい先生からは
「音大を目指すなら練習時間の確保が必要。週休2日制の私立女子中学校への進学を考え、修学旅行にも行かない覚悟がいる」
と言われた。
当時の私は、友達と遊ぶことに毎日夢中で、ほとんどの友人が進学する公立中学校での新生活をとても楽しみにしていたので、先生のその言葉にすっかり怖気づいてしまい、あっさり音大への夢を諦め、ピアノは趣味でいいやと考えを変えてしまった。
中学時代
先生は弾くことだけでなく、楽典にも渡り、毎回大変熱心に根気よく教えてくださり、私はレッスンが楽しみで、ピアノがますます好きになった。
この先生の指導法は、今も私の指導モデルとなっている。
部活はバドミントン部に入り、毎朝のランニングや放課後練習にと明け暮れた。
友人にも恵まれ、よく語り合った。
土曜日には近所へ茶道のお稽古へ通っていた。茶道は大学卒業まで通い続けたほど、私にとって重要な習い事となり、先生からは貴重な数多いお教えを受け、先生がお亡くなりになるまでお付き合いは続いた。
ピアノの先生が次々と変わる
高校は、他府県の私立女子高校へ。
始めの1年は、校則の厳しい学校の雰囲気に馴染めなかったが、2年生で生涯の親友と呼べる友に出会えて学校生活は楽しくなる。
高校入学と同時に中学時代の先生が遠方へ引っ越されることになり、先生の友人を次の先生として紹介していただいた。
しかし、1年余りでこの先生は子育てに専念されるため、新たに先生のお母様を紹介していただくことになった。
私は学校帰りに、重い楽譜をさげて自宅とは逆方向の先生のお宅へ行くことになる。
友人にはレッスン日の荷物の重さに呆れられたが、私はレッスンを受けられることが有難くて嬉々として通っていた。
先生のお宅はグランドピアノと小さなパイプオルガンがある素敵なレッスン室で、バッハを根気よく教えていただいた。
文学部教育学科 初等教育専攻
大学では3年生から"ピアノ研究ゼミ"を選択。
"ピアノ研究ゼミ"の教授は、連弾と2台ピアノの演奏の指導に精力的に取り組んでおられた。
様々な指導をいただき、2台ピアノの演奏会や、卒業演奏では連弾の演奏会を経験することができた。
現在のレッスンで連弾曲を多く取り入れるようにしているのは、この時の経験が大きい。
4年生では小学校教諭免許取得のため教育実習に1ヶ月母校へ行き小学2年生を担当。
子供たちに慕われ楽しい教育実習となる。
音楽教室の先生に!
どうしても音楽教室講師になる夢が捨てきれず、大学1年生の秋にヤマハのエレクトーン指導者養成コースに入会。
大学での勉強と並行してヤマハで音楽の勉強を始め、ヤマハのグレード取得のためピアノ指導もヤマハの先生から受けるようになる。
大学在学中にエレクトーン演奏グレード、ピアノ演奏グレード、指導グレードを取得。
音楽教室の講師に生徒100人!
大学卒業と同時にヤマハ講師採用試験に合格。
ヤマハ梅田店エレクトーン講師として採用され、子供・大人のグループレッスン、個人レッスンを合わせて延べ100人の生徒を担当。
先輩の先生方にポピュラーの即興演奏等、様々なことを教えていただく。
講師時代には2回の自主コンサートに出演。有志の講師仲間との宿泊練習合宿など多忙を極めたが、充実しており輝かしい思い出の多い時代であった。
良き先輩講師陣に可愛がっていただき、現在も情報交換など交流が続いている。
元々温厚な性格だったため、生徒さんからも慕われ、年上の生徒さんからはマスコットのように可愛がっていただいた。
結婚
24歳で結婚。長女、長男を続けて授かり、育児生活に入るがご近所のヤマハ特約店とのご縁があり、近隣の生徒さんを紹介いただき自宅で教え始める。
28歳の時ヤマハ個人宅ピアノ教室資格(旧PTC,現PSTA)を取得するが、子育てに専念するために4年ほどで一度教室を閉める。
子育てと勉強の日々
とにかく無我夢中で子育てに邁進。
自分の経験から子どもたちのピアノの先生を探すことには労力を使った。
幸い良い先生と出会いがあり、長女、長男ともに4歳から通わせた。
チャンスがあれば自分もピアノ教室を再開したいという気持ちは消えず、子供が寝てからの時間を教材研究やバロック曲の分析の勉強に充てる。
単発での講座、勉強会には多数参加。(田村宏、梅本俊和、市田儀一郎、角野裕・怜子、呉暁、湯山昭、小林仁、日下部憲夫、中村菊子、村上輝久、橋本晃一、伊藤仁美、武田真理の諸先生)
北村智恵先生のピアノ指導者ゼミナールに2年間通う。
演奏は留学経験のある先生とヤマハの先輩に指導いただく。
長女が小学3年生になった時、近所の方にレッスンを頼まれ引き受けたことをきっかけに、少しずつ生徒が増え、教室を再開。
子育てと家事中心で生徒募集はしなかったため、細々とした教室であったが、毎年個人で行う発表会は保護者からも喜んでいただいていた。
介護生活の始まり
2001年春、実母が大腿骨を骨折。車いす生活になり、入退院を繰り返し、私の生活は一変。
まだ介護保険制度やヘルパー利用が一般的でない中、高齢の実父と二人三脚で実母の介助をするようになった。
同じ時期に夫の両親も少しずつ細かいサポートが必要となる。夫はすでに10年以上海外勤務で不在が多く、両親4人のサポートを私が中心となって対応する生活となった。
こんな状況の中で苦労はあったが、ピアノ教室は続けていた。
むしろレッスンで私の事情を知らない生徒さんたちの笑顔を見ることで、助けられ、元気をもらっていた。
自由に出掛けることが困難になり、ピアノ指導法の勉強は財団法人ヤマハ音楽振興会PSTA配信の講座受講と書籍での勉強に切り換える。
介護の合間にGCCAコーチングセミナー18時間受講を修了。
コーチングの基礎を学ぶ。
発表会も個人での開催は取り止め、楽器店主催発表会への参加に変更する。
介護のピーク
入退院を繰り返していた実母を心配するあまり、元気で助けてくれていた実父も脳梗塞で倒れた。
父の脳梗塞以来、実両親は目を離せなくなり、私は1人で実両親2人を24時間介護しなければならない状況となる。
困っている私に同業者の親しい友人が、空き時間に助け舟を出してくれた。
友人と音大生になったばかりの長女に教室を任せることに決め、私は両親のために時間を使うことを優先する生活に切り替えた。
ヘルパーと通所介護を頼んだが、施設を探す時間がなかなか取れずに途方にくれた。
結局は4ヶ月ほど24時間付き添いの家政婦さんを頼み、この間に動き回り施設を探した。
やっと実両親2人が施設に入居できてからも、2人が順番に骨折や体調不良で救急車で運ばれることが続き、昼夜問わず呼び出される状況で、落ち着いた気持ちでの生活は全くできなかった。
かけがえのない存在
いつ倒れてもおかしくないような日々が続いたが、2007年2月に父が急死。
持病が進行していた母はそのショックで2週間後に後を追うように亡くなった。
父が脳梗塞で倒れてから亡くなるまでの日々は実際には2年足らずの期間だったが、私にとっては10年ほどに感じられ、両親の葬儀で私は涙を流す気力もないほど疲れ切っていた。
この時、長女は大学2年生、長男は高校3年生だった。
子供達が私を励まし、しっかり支えてくれる存在に成長してくれていたことは私の大きな救いとなった。
現在、子供達とは距離は離れているが私にとってかけがえのない大切な存在である。
実両親の葬儀後に私も体調を崩したが、レッスンは休まず継続。
生徒さんがレッスンの帰り際に「頑張って練習するね」と言ってくれると、私はとても嬉しくて元気になった。
音楽に、レッスンに、生徒さんの存在に助けられていたと思う。
まもなく、夫の両親の体調が悪化。
引き続き病院とは縁の切れない生活が続く。
2009年に義父が亡くなり、その後は一人になった義母の入退院のサポートを続ける生活となる。
現在は夫の海外勤務も減り、義母のサポートは二人で協力し合えるようになった。
家族の次に自分の宝物は友人と音楽
小学校、中学校、高校、大学、ヤマハ時代、そして結婚後とそれぞれのステージでの大切にしている友人とのつながりがある。
振り返れば、音楽は私の人生にとって不可欠で大事な宝物であり、心のよりどころであった。
これまでの自分を支えてくれた音楽の素晴らしさをご縁のあった生徒さんに伝え、音楽を愛する人材を一人でも多く育てていくことができればこれほど嬉しいことはないと考えている。
【所有資格】
小学校教諭免許1級
ヤマハ演奏グレードピアノ&エレクトーン、指導グレード
財団法人ヤマハ音楽振興会 PSTA認定講師
脳トレピアノ®️プライマリー認定講師